☆ナルニア国物語
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冒険とファンタジー -おもしろいが一番 「ナルニア国ものがたり」は冒険物語? 『ライオンと魔女』を読んで、これを冒険物語と思った人は、たくさんいるのではないでしょうか。冒険物語?そうですとも。洋服だんすを抜けると一本のガス灯がともる雪降る夜の森だったなどという驚きは、行方不明の弟を探してアフリカの中央部の、白人にはまだ知られていなかった王国に入り込んだ探検隊一行の驚きと実によく似ています。 これはまだ知られていなかったライダー・ハッガードの『ソロモン王の洞穴』という十九世紀の有名な冒険物語の一シーンです。冒険物語は、ふつう旅の物語です。『ライオンと魔女』の四人兄弟姉妹も、みずから求めてではありませんが、驚きに満ちた旅をしています。 旅の途中。中心人物は、だいたい生死をかけた戦いをして英雄的な勝利をおさめ、旅の目的を達成します。『ソロモン王の洞穴』では、弟を探す兄のイギリス貴族が未知の王国の正統でない王と戦って勝利します。『ライオンと魔女』では、ピーターが狼を倒し、白い魔女と剣を交える場面があります。「ナルニア国ものがたり」シリーズはどの巻にも冒険の要素があるのです。 冒険物語の衰微 冒険物語は、イギリスが世界一の植民地帝国を築いた十九世紀の後半に、イギリスで全盛期を迎えました。イギリスの若者にとって、危険に満ちた旅に出て、反抗する者たちと戦って勝利をおさめ、領土を広げて、イギリスを頂点とするヨーロッパ文化とキリスト教を世界に広めることは正義と信じられていました。そうした若者達の冒険の物語がたくさん書かれ、大いに読まれたのも当然でした。 けれども、地理的な踏査や探検が進むにつれて、世界に知られていないところはなくなり、また、武力征服して自国の領土を広げるようなやり方が否定されるようになると、未知の土地探検とか、外国人との戦いといった話は真実味を失い、飽きられてしまいました。 ですから、二十世紀になると、真実味を保つ為「冒険」の表現は当然変わりました。そのひとつが空想の物語の中での冒険です。空想の話のなかでは、現実には絶対ありえないことも「ありえる」わけです。『砂の妖精』という作品でよく知られているE.ネズビットが、この方法でたくさんの作品を書いて評判になりました。大人の劇をつくったジェイムズ・バリの『ピーター・パン』も要請物語と冒険小説の混合といわれています。日常生活の中の子供たちが真実みのある冒険をする話といえば、いわば「ごっこあそび」の物語か、あるいは生活そのものを冒険を考えて、職業を身に付ける子供たちをあつかった小説でした。いくつかの例外はありますが、事実からはずれないことに気をつかいながら冒険を語れば、精確さや真面目さは評価されても、心のはずみはうしなわれがちになります。特に第二次世界大戦を経た1950年代以後の子供の文学が事実、真実をつよく求めるようになって、冒険小説はやや堅苦しいものになってしまいました。 冒険とは? しかし、冒険という行動は、人間が生きていく為の移動、発見、戦い、獲得の行動だったでしょう。そして、自分がどんな状態で生きているかを知って安心するための、天地自然探求と、知識の獲得と、心身鍛錬でもあったでしょう。冒険は生きることそのもでしたから、その物語は喜びであり、安心と幸福感をもたらすものでした。 「ナルニア国ものがたり」シリーズは、ふさわしいかたちでいつも子供の文学になくてはならない冒険を受け継いでいます。新しい宇宙の創造とその消滅とか、不思議と驚異に満ちた未知の大洋航海とか、善の力と悪の力が衝突する大きな戦闘といった、人間の持つ好奇心、知識欲、行動意欲などを刺激する冒険の物語を復活させたのです。 ファンタジーの歴史 冒険の物語に新しさを吹き込んだこのシリーズは、七巻とも、わたしたちがいるこの世界の子供たちが、まったく別の世界であるナルニア国へ行ってもどってくる筋になっています。つまり、私たちの世界とは別な世界があるというアイディアから生まれた話です。もっとも、六巻目の『魔術師のおい』を読むと、私たちの世界とほかの世界の間にはその中間地帯のようなところが描かれて、別世界は数多く存在するようですが、実在する私たちの世界とは別な世界を物語る空想の話はしばしば「異世界ファンタジー」とか「第二の世界のファンタジー」などとよばれます。 別世界というか異世界というか、現実にない世界の物語は、ギリシア神話とか、北欧神話といった神話や伝説や昔話からはじまりました。神話、伝説、昔話は名の知れない多くの人によってつくられたものですが、個人によってつくられているのを、ふつうファンタジーとよんでいます。 このファンタジーとよばれる文学が、子供に向けて書かれ始めたのは、今から150年ほど前のイギリスでした。科学の進歩で宗教に対する疑いがつよくなったため、人々が神様を見失うことを心配した作家たちが子供に向かって、別の世界を描いて神の実在を語ろうとしました。ずいぶんとまじめで難しそうに思えるでしょうが、実際は、たとえば北風が大きくて美しい女性とあらわれて、小さな子供を北風のうしろの国へ連れて行ったり、川に落ちて溺れ死んだ少年が水の子という生き物に変わって水の世界を旅したりと、新鮮なアイディアに満ちていて多くの子供たちの興味をかきたてました。しかし、科学的な考えの深まりは、お話の魔法まで筋道たてて説明したりしはじめ、その結果『風にのってきたメアリー・ポピンズ』のような、ゆかいな思い付きが楽しめるファンタジーが生まれました。そのかわり、神様はいるかとか、魂の永遠といった大きな問題は、なにかわすれられたようになりました。 「ナルニア国ものがたり」の位置 C.S.ルイスは1950年発行の『ライオンと魔女』を第一作として『さいごのたたかい』まで一年に一作ずつ出版しました。そして、このシリーズは 「ファンタジーの復活をうながし、子供にむけたファンタジーの芸術性を高めた」といわれました。 十九世紀後半に生まれたファンタジー、たとえば『北風のうしろの国』(ジョージ・マクドナルド 1871)や『水の子』(チャールズ・キングズリ 1863)などは宗教家・社会改良家としての作家たちが自分のすべてを語りつくしたファンタジーでした。「ナルニア国ものがたり」は、そうして文学を新しい時代に再生させたというのです。しかし、今、マクドナルドやキングズリを読むと、別世界を創造しているのに、実際におこっている社会問題や政治問題などもあからさまに出てきますし、子供にはわからないことまでたくさん語っています。まだ未整理という感じです。こうした作家たちは「子供」にふさわしい「ファンタジー」を作り出すための実験途中だったのです。 C.S.ルイスの物語は、とても読みやすいものです。一章、二章と分けられていますが、それぞれの章の長さがだいたい同じです。そして、使われていることばがほぼ普段使われていて、誰でも知っている言葉で、難しい言葉はめったに出てきません。朗読されてもたやすく理解できます。子供の読む文学の型が出来上がっているのです。その上、神秘をのぞく心のおののきと、冒険を読んで感じる爽快感があります。現実世界と異世界にまたがって繰り広げられる物語全体が伝える意味も、マクドナルドやキングズリの作品のそれと同じあるいはそれ以上の力を持って心に残ります。それを芸術性というのです。 こどもの文学の歴史にも、ある作家の作品が強い影響力で文学全体をかえることがあります。1835年から童話をつくりはじめたアンデルセンは、子供のよむ童話と物語が非常に芸術性の高いものになることを人々に認識させて、お説教全盛だった子供の文学を美と詩と楽しさ豊かなものに変えていきました。C.S.ルイスも、子供のファンタジーが表現できるものの深さと広さを知らせて1960年代のファンタジーブームを起こしたといわれています。 前に述べたことですが、「ナルニア国ものがたり」は冒険物語の伝統を受け継ぎました。ファンタジーとしても、面白い性質をもっています。ファンタジーも、別世界ファンタジーとか、人形ファンタジーとか、動物擬人化ファンタジーとか、さまざな種類があります。一人の作者が創作したのではないフェアリー・テイルも「不思議」がおこることにはかわりないので、ファンタジーの一つに数える人もいます。そして、ルイスは自分の作品をフェアリー・テイルとよんでいます。ていねいに読んでみると、さまざまに分けられるファンタジーのどれにもあてはまる要素が全部入っていることがわかります。 「ナルニア国ものがたり」は、子供の文学のよい伝統を受け継いで、子供を楽しませながら、新しい時代に手渡ししていると考えてよいでしょう。 不思議なシリーズです。 『朝びらき丸東の海へ』あとがきより (2000 春 神宮 輝雄) ジャンル別一覧
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